世の中には憎い人間をこの世から消えればよい、生きているのが悔しいと思って呪殺で憎い相手を殺したら何が解決されるかを問題にして呪いを行う前に考えるところから始めるのが自分の為であると思います。

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呪殺が成功すれば、その一瞬は気持ちが救われるのかもしれない。

しかし、それは一時の幻想であって後々、自分の人生にとって得るものは何もないでしょう。
得るものが無いどころかマイナスに転じることは多いです。

呪殺に限らず人を殺せば必ず自責の念に苛まされます。自分が苦しくなる、悲しみは新たな悲しみを生み、苦しみはループするのです。

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人を殺すことは自分を滅ぼします。万人を殺しても殺すことに麻痺するだけで自分を滅ぼすことに変わりは御座いません。

ドイツで、ナチスを率いたヒトラーは「一人殺せば殺人だが、百万人殺せば英雄だ」と言って実際にユダヤ人虐殺を決行いたしました。

旧ソ連のスターリンは「ひとりの死は悲劇であるが、万人の死は統計でしかない」と同じような言葉を残しました。
         
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栄華を極めたであろう彼らの最後で分かる通りでしょう。
命は神と魂が交わした契約の領域であって何人も奪ってよいものではないのです。

自分が憎むべき人間が現世で成功を掴めない人生を歩ませることこそが本当の意味での復讐の成立と言えるのです。

自分を苦しめた人間に懺悔の心を思い起こさせ自我の愚かさを悔いさせることで、自分が受けた苦しみと悲しみはやっと消えるのではないでしょうか。

一度感じてしまった憎しみは消えることのない感情。
苦しみは消えることのない傷。それらを理不尽にも負わせられた人間の心が本当に癒えるときは、相手に苦しみを与え自分と同じ運命を辿らせる、または自分以上の苦しみを与えることでやっと許すことが出来るのだと思います。

憎い奴を許すことができたとき、やっと憎しみは消え、苦しみからも解放されるのです。
自分を苦しめた人間が突然居なくなったとします。

そこに何が残るか、心に残るのは憎しみと悲しみと虚しさ。
そして、それは永遠に癒されることのない心の傷として残るでしょう。

何故なら、憎むべき相手が居なくなったとき、消化しきれなかった心の行き場所はどこに向かえば良いのかを考えれば分かると思います。

死刑が求刑され執行されても遺族の心は永遠に晴れることはないのです。人間社会のケジメとして死は1つの事象に過ぎないのです。

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人の死は必ず誰もが経験する逃れられない神から与えられた平等で未来の事象です。死を持って罪など償えない。憎しみを消すことも苦しんだ過去を消すことも出来ないのです。

呪いの使い方も多々あります。呪殺を使うのも悪いとは思いません。
しかし、呪いの原点は自分の幸せを追求するものであることは忘れてはいけないことだと思います。

復讐も自分が幸せになるためにある1つの道具に過ぎないのです。

呪殺は呪いのなかでも特別なものです。自分で行うときも呪い代行へ依頼するときも「呪い返し」は通常の考え方は通用致しません。

命は神の領域ですから「呪い返し」も神との戦いとなりますので行うのであれば腹を括る必要はあるでしょう。

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